私がいままで読んだ東野圭吾作品の中で、一番好きなもの。
好みであった。題材がいいのか、いや、テーマがいいのか。その二つともツボであった。
本書の内容については、語りたくないし、読んでいただきたいと思う。
東野氏の中で、この作品の構想が始めにあり、広がったものに『白夜行』や『幻夜』があったと読んでいて感じた。『白夜行』のスタイルは、この語り部形式を用いて「羅生門」的にまとめたものだ、ということが解る。
この本の解説もまた良かった。
『悪意』の本質は、ドキュメンタリー映像そのもの歴史にあるのだと思う。
ドキュメンタリーとは、ヒトラーもまた利用したがったものだし、フィクションとノンフィクションの違いは何か、というときに、必ず起こる問題が本書の中に閉じ込められ「ミステリー」として浮き上がってくる。
いじめというものの問題は、多分これからも、これまでも消えないものでそれもこの本に描かれている。
記録、というもののチカラ。
そして、その幻想ともいえる弱さ。
これらが、この一冊に細かな描写とともに書き出されている。
東野圭吾氏が、映画監督になりたいといまも言っていると知ったのだが、確かにそうかもしれないと思う。
彼の描写は、映画を眼の見えないヒトに説明しているようなものだ。
文字というものは、その昔『規則、禁止、規制』などのために使われた。人々の行動を拘束するために利用されたのである。そして、それらは常に頭の中で繰り返される短さを保っていた。
こうした文字は、人々の中に呪術的に再生され、私たちはそれを守り、それに従う。
綴るということは、そこから逃れられないのだとも私は思っている。
写真は、見る人によって作者が伝えたいと思うこと以外のものを受け取るヒトがいるけれども、本書はそれに似ている構図の中でそれぞれの中にある、それぞれのストーリーが立ち上がっていき、ズレを起こす。
視覚は、ヒトを惑わす。
文字でも写真でも同じである。
好みであった。題材がいいのか、いや、テーマがいいのか。その二つともツボであった。
本書の内容については、語りたくないし、読んでいただきたいと思う。
東野氏の中で、この作品の構想が始めにあり、広がったものに『白夜行』や『幻夜』があったと読んでいて感じた。『白夜行』のスタイルは、この語り部形式を用いて「羅生門」的にまとめたものだ、ということが解る。
この本の解説もまた良かった。
『悪意』の本質は、ドキュメンタリー映像そのもの歴史にあるのだと思う。
ドキュメンタリーとは、ヒトラーもまた利用したがったものだし、フィクションとノンフィクションの違いは何か、というときに、必ず起こる問題が本書の中に閉じ込められ「ミステリー」として浮き上がってくる。
いじめというものの問題は、多分これからも、これまでも消えないものでそれもこの本に描かれている。
記録、というもののチカラ。
そして、その幻想ともいえる弱さ。
これらが、この一冊に細かな描写とともに書き出されている。
東野圭吾氏が、映画監督になりたいといまも言っていると知ったのだが、確かにそうかもしれないと思う。
彼の描写は、映画を眼の見えないヒトに説明しているようなものだ。
文字というものは、その昔『規則、禁止、規制』などのために使われた。人々の行動を拘束するために利用されたのである。そして、それらは常に頭の中で繰り返される短さを保っていた。
こうした文字は、人々の中に呪術的に再生され、私たちはそれを守り、それに従う。
綴るということは、そこから逃れられないのだとも私は思っている。
写真は、見る人によって作者が伝えたいと思うこと以外のものを受け取るヒトがいるけれども、本書はそれに似ている構図の中でそれぞれの中にある、それぞれのストーリーが立ち上がっていき、ズレを起こす。
視覚は、ヒトを惑わす。
文字でも写真でも同じである。
『Se7en』
また、デヴィット・フィンチャーのセブンが観たくなってきた。
一度観たきり、いや、部分的に見返したきり止めていたあの映画。
傲慢 (superbia)〔Pride プライド〕 〈Lucifer〉
嫉妬 (invidia)〔Envy エンヴィー〕 〈Leviathan〉
憤怒 (ira)〔Wrath ラース〕 〈Satan〉
怠惰 (acedia)〔Sloth スロウス〕 〈Belphegor〉
強欲 (avaritia)〔Greed グリード〕 〈Mammon〉
暴食 (gula)〔Gluttony グラトニー〕 〈Beelzebub〉
色欲 (luxuria)〔Lust ラスト〕 〈Asmodeus〉
彼らの永遠のテーマ。
そして、けしてなくならないテーマ。それをもう一度、眼で確かめたいという思いになってきた。それだけ年をとってしまったのだろうと思う。キリストの7つの大罪は、実は消えないものであるということをキリスト自身が知っていたのではないか、と思う。
七大陸(五大陸と七大陸別、広辞苑は六大陸)、七高峰、セブンはラッキーナンバーである。
その裏にある、七つの大罪にはそれぞれに悪魔が宿ると言われている。ケビン・スペーシーの犯人も見所だ。『ベンジャミン・バトンの数奇な人生』を観ながら、この作品こそがメインテーマだったような気がしながら、終わりを見るしんどさに避けてきたところがある。
しかし、もう一回観てみたいと思うようになったのはこの映画が多分『ベンジャミン〜』以上に面白いものだからだ、と思う。
細部に拘った、という印象が今でもある。白いモヤがかけられたような印象が今でも残っている。そして、癖のある文字をああ、もう一度観たいと思うのはなぜか。 数奇な人生、以上にここに多分”ヒント”が満載だと思えるからだ。傲慢とは、何か。また高慢とは何かという話がある。どちらも共通するのは『了見が狭い』という事だと言う。
また、デヴィット・フィンチャーのセブンが観たくなってきた。
一度観たきり、いや、部分的に見返したきり止めていたあの映画。
傲慢 (superbia)〔Pride プライド〕 〈Lucifer〉
嫉妬 (invidia)〔Envy エンヴィー〕 〈Leviathan〉
憤怒 (ira)〔Wrath ラース〕 〈Satan〉
怠惰 (acedia)〔Sloth スロウス〕 〈Belphegor〉
強欲 (avaritia)〔Greed グリード〕 〈Mammon〉
暴食 (gula)〔Gluttony グラトニー〕 〈Beelzebub〉
色欲 (luxuria)〔Lust ラスト〕 〈Asmodeus〉
彼らの永遠のテーマ。
そして、けしてなくならないテーマ。それをもう一度、眼で確かめたいという思いになってきた。それだけ年をとってしまったのだろうと思う。キリストの7つの大罪は、実は消えないものであるということをキリスト自身が知っていたのではないか、と思う。
七大陸(五大陸と七大陸別、広辞苑は六大陸)、七高峰、セブンはラッキーナンバーである。
その裏にある、七つの大罪にはそれぞれに悪魔が宿ると言われている。ケビン・スペーシーの犯人も見所だ。『ベンジャミン・バトンの数奇な人生』を観ながら、この作品こそがメインテーマだったような気がしながら、終わりを見るしんどさに避けてきたところがある。
しかし、もう一回観てみたいと思うようになったのはこの映画が多分『ベンジャミン〜』以上に面白いものだからだ、と思う。
細部に拘った、という印象が今でもある。白いモヤがかけられたような印象が今でも残っている。そして、癖のある文字をああ、もう一度観たいと思うのはなぜか。 数奇な人生、以上にここに多分”ヒント”が満載だと思えるからだ。傲慢とは、何か。また高慢とは何かという話がある。どちらも共通するのは『了見が狭い』という事だと言う。
清原選手は天才であった。
彼の若き日々のユニホーム姿を今も思い出す。
野球選手というものの華やかさを失いたくないと、彼はずっと遊びほうけていた。そこにはシンプルな目的が確かにあったから、手を抜かなかった。もう一度、子どもたちに自分がスター選手であった日々を見せたいと思ったときには、彼は子どもに逆に気を使われていた。子どもたちは「抱っこして」とさえ言えないぐらい、彼は身体を病んでいたからである。
彼のやんちゃな姿とふてぶてしい程の態度、筋に合わなければどんな人間でも見下げ軽蔑する姿。それらは、彼がただの「野球少年」であったことを裏付けるのではないか、と思う。身体に恵まれた彼のバッティングは、素人の私がみても美しいものだった。しかし、彼を応援したいと思えなかった。彼は、ファンと共に野球をしているヒトには思えなかったからである。バブルの時期にその姿が重なったのは残念だと思う。今のような時代であったら、清原選手の姿が時代に栄えたのだとも思う。その清原選手が、この本で訴える言葉は「ありがとう」というものだった。
この本の中で最も印象的だったのは、リトルリーグ時代の投手であった話しである。
集団を無視し、彼は打たれ勝手に熱くなってしまう。その帰りコーチに1000本ノックを強いられる。彼はそれで、「野球は1人でやるのではない」と知る。そのことが原因で脱水症状になってしまい病院に行くのだが、点滴をしながら親に「なぜ、こうなったか」ということを聞かれるが、話せなかった。恥ずかしかったのだと言う。小学生の清原はその時「野球人」になっていたから、チームを考えなかった自分がいかに恥ずかしい存在であったか、ということを到底口にできなかったのである。
このくだりを読んだ時、私はああ、この人には勝てないと思った。
彼はすでに小学生のときに「野球人」であり、子どもではなかったのだと気がついたからだ。
ある時、清原選手の問題はどこにあるのか、と真剣に考え続けたことがある。それは多分「恨み」だったのではないか、と思っていた。そして、この本を読んだ時、それらは明らかになって行く。彼は「反骨心」と「なにくそ精神」だけで生きていた。反骨心は必要だが、それが愛情と敬意に変わる頃、彼は野球ができなくなっていた。彼は「恨み」で生きて来た。それを奪回し勝利を手に入れるまでの道のりの中で、彼は悔しさと、理不尽な社会と向き合わざるをえなかった。引退までそれは続いた。
簡単に書いたが、野球の道を抜け出すことが、彼を地獄に堕としこむようなことと同様であるということは、誰にでも解るだろう。その部分が、小さく行間にしみ込むように描かれている。清原選手を人々は「日本男児」だと呼ぶ。しかし、そうだろうか、と私は考える。
彼の辛さは、小さくなって誰かに抱きかかえてもらうことができない辛さだ。
オカンの言葉をずーっと大事にしてきたのは、彼を唯一抱きかかえたヒトだからである。
清原選手の陰と陽を描いたこの本で「ありがとう」と締めくくっている。
しかし、本当は何も終っていないのだ。彼の「恨み」と「反骨心」は「感謝と野球への敬意」を混在させて、コレから「形態」を作り出して行く。選手時代のように、ショックを受けたら必ず考え直し、素振りをする。そして、打つと彼は考えているのではないか。清原和博は、生涯4番バッター精神で生きて行くのかもしれない。
「オレが打たなければ、誰が打つ」と、今も尚思っているはずだ。
彼の若き日々のユニホーム姿を今も思い出す。
野球選手というものの華やかさを失いたくないと、彼はずっと遊びほうけていた。そこにはシンプルな目的が確かにあったから、手を抜かなかった。もう一度、子どもたちに自分がスター選手であった日々を見せたいと思ったときには、彼は子どもに逆に気を使われていた。子どもたちは「抱っこして」とさえ言えないぐらい、彼は身体を病んでいたからである。
彼のやんちゃな姿とふてぶてしい程の態度、筋に合わなければどんな人間でも見下げ軽蔑する姿。それらは、彼がただの「野球少年」であったことを裏付けるのではないか、と思う。身体に恵まれた彼のバッティングは、素人の私がみても美しいものだった。しかし、彼を応援したいと思えなかった。彼は、ファンと共に野球をしているヒトには思えなかったからである。バブルの時期にその姿が重なったのは残念だと思う。今のような時代であったら、清原選手の姿が時代に栄えたのだとも思う。その清原選手が、この本で訴える言葉は「ありがとう」というものだった。
この本の中で最も印象的だったのは、リトルリーグ時代の投手であった話しである。
集団を無視し、彼は打たれ勝手に熱くなってしまう。その帰りコーチに1000本ノックを強いられる。彼はそれで、「野球は1人でやるのではない」と知る。そのことが原因で脱水症状になってしまい病院に行くのだが、点滴をしながら親に「なぜ、こうなったか」ということを聞かれるが、話せなかった。恥ずかしかったのだと言う。小学生の清原はその時「野球人」になっていたから、チームを考えなかった自分がいかに恥ずかしい存在であったか、ということを到底口にできなかったのである。
このくだりを読んだ時、私はああ、この人には勝てないと思った。
彼はすでに小学生のときに「野球人」であり、子どもではなかったのだと気がついたからだ。
ある時、清原選手の問題はどこにあるのか、と真剣に考え続けたことがある。それは多分「恨み」だったのではないか、と思っていた。そして、この本を読んだ時、それらは明らかになって行く。彼は「反骨心」と「なにくそ精神」だけで生きていた。反骨心は必要だが、それが愛情と敬意に変わる頃、彼は野球ができなくなっていた。彼は「恨み」で生きて来た。それを奪回し勝利を手に入れるまでの道のりの中で、彼は悔しさと、理不尽な社会と向き合わざるをえなかった。引退までそれは続いた。
簡単に書いたが、野球の道を抜け出すことが、彼を地獄に堕としこむようなことと同様であるということは、誰にでも解るだろう。その部分が、小さく行間にしみ込むように描かれている。清原選手を人々は「日本男児」だと呼ぶ。しかし、そうだろうか、と私は考える。
彼の辛さは、小さくなって誰かに抱きかかえてもらうことができない辛さだ。
オカンの言葉をずーっと大事にしてきたのは、彼を唯一抱きかかえたヒトだからである。
清原選手の陰と陽を描いたこの本で「ありがとう」と締めくくっている。
しかし、本当は何も終っていないのだ。彼の「恨み」と「反骨心」は「感謝と野球への敬意」を混在させて、コレから「形態」を作り出して行く。選手時代のように、ショックを受けたら必ず考え直し、素振りをする。そして、打つと彼は考えているのではないか。清原和博は、生涯4番バッター精神で生きて行くのかもしれない。
「オレが打たなければ、誰が打つ」と、今も尚思っているはずだ。
火曜日にも1000円で観れるらしいと分かり、チェの一部、前編を観ようとしたがアカデミー賞前でいろんな面白い映画が発表されているので、どれを観ようか、チェは止めようか、と悩んで結局観に行った。
やはり、後編から観てよかったなと思っているのは、前編から観たらきっと『チェ』の偶像化を映画ともに自分も行っていたのではないか、ということだった。
このような映画の場合、私はできるだけ順序通り観ない。DVD化されている場合には、順序通り観るけれども、映画の場合再生することがかなわないので、そうする。
チェのことをネットでいろいろ観ているうちに、くだらないことだけれどチェは双子座でカストロは獅子座であることを知った。獅子座のような「火のグループ」と呼ばれる星座は「風のグループ」と呼ばれる双子座、天秤座などに吹かれその「火」を大きくするのだというようなことまでを読んでいた。
しかし、そこには書かれていたかったけれど、実は私が最近気になっているのは「マヤ文明(暦を作った文明である)」である。マヤ文明は、カレンダーを作ったとされる文明だ。とにかく、彼らが残した造形物が気になり、いろいろ文献をあたっているのだけれど、彼らの新年は7月26日なのである。
カストロとチェの「7月26日運動」を観たとき、私はもしかしたら、だからキューバの革命はうまく言ったのではないか、とさえ思えた。あの二人は幸運の風に乗ったのかもしれない、という意味である。
さて、このような話はどうでもいいのだが(笑)。
なんと感想を書いていいか、本当に悩んでいた。とにかく、チェのさまざまな記録を読まないとなんとも言いようがないのだけれど、チェはそう立派な人でもなかったような気もする。彼は、医師になろうとしているうちに、自分の将来を予測できてしまうような状態に、常に飽き飽きしていたのではないか、とも思える。
彼の本「モータサイクル ダイアリーズ」が映画になっていて、それも観ていないのだけれども、彼は自由であることを好んでいたのではないか。
「明日は何があるかわからない」世界に彼は没頭できた。
しかし、そうそう放浪を続けている訳にも行かないし、冒険家と当時呼ばれているものになるのも、あまり興味がなかったのではないか。彼は人を助けたくて医者になったからだ。
何か、僕にできることはないか、と常に探し続けている状態で、彼は別な土地での社会主義運動に出会い、その後25歳頃カストロに出会ってしまった。そこで彼は「放浪のための大義名分」を得たのではないか、と私はそう考える。
カストロは弁護士で、チェは医師である。
彼がカストロの考えを軽く扱わなかったということは想像するに容易い。
チェは、革命後のキューバに最も必要とされた人物である。
が、しかし、彼は後編では『別れの手紙』とあるように、他国の革命を企てキューバを旅立つ。始めから、カストロとは似て異なる世界を夢見ていたチェは、自由で歯に衣着せぬ発言を行った。彼は、モノやカネ、そして名誉に拘らない人であった。彼の理想とするものは、そこになかったから無頓着になれた。彼は人民のためにできることをすべてやろうとした。こうした人間は「大義名分」を愛し、富を得る側からすれば疎ましいに決まっていた。
アメリカに牙を剥き(しかも、アメリカを憎んではいないとも語っている)、そしてソ連を睨んだ。
そのどちらからも、独立し自立した祖国を望んでいたからである。
しかし、それは大国から嫌われる理由となる。そうした、現実的な問題により(冷戦 キューバ危機 wikiへ )彼は革命後のキューバから離れざるを得なくなった。
チェが目指していたものは、カストロのソレとは意味が違っていた。
チェが見つめていたものは、広い地球の中の「危機」であった。
しかし、それをいかに為すか、と考えていた時多分だが、途方に暮れたのだとも想像する。
そこで出会ったのが、前妻である社会主義活動家であるイルダ・ガデアであった。
そして二人は結婚するが、彼はその思想にも多分だが陶酔していなかったと考える。彼は彼の中にある思想を、補強するために社会主義の活動家たちの話を好んで聞いていたような気がするのである。
彼は公私ともに、自分の思想を固めるため完成させるために、人を選びそのそばに置いた。そんな気がする。
彼は、本当に賢く農民ゲリラたちに理解できるように思想を語り、そしてまた読み書きを覚えさせることは「簡単に騙されないようになることだ」と言っている。
彼の失敗はいったいなんだったのか。
そんなことも考える。いや、そのほとんどが失敗だったからうまく言ったのではなかったか。革命とはそのようなものに支えられているのではないか、と。
ゲバラを演じたデル トロが『誰もチェにはなれない』と言っていた。
ゲリラや内戦に干渉しているアメリカは、常に「正義」を掲げる。しかし、キューバにおいて、または他国においてその「正義」は一部の人のための「富を支えるもの」としかならない。
私たちは、各国の内戦に干渉するアメリカをどのような目で見ていたのだろう。
そんなことを映画を観ながら思っていた。誰も英雄的ゲリラにはなれない。誰もチェにはなれない。なってはならないのであり、彼の深い愛情など、誰でもが持てるものでもない。それを予め自分たちに言い聞かせることが必要なのだ、ときっとデル トロは演じてなお思っていたに違いない。
私が、この映画を観て感じた事はあまりたいした事ではなかった。
「運命というものはある」ということを感じたのである。
今、資本主義が崩壊しつつある世界でゲバラやカストロは何を思っているのだろうか。
それこそが、私の知りたいことである。
資本主義を行うために多くの人間の命が消えていった。そして、それを為し得た後に起こったこの状態は、独裁政治をしていたキューバのあの頃を彷彿させるのではないのか。それが世界中に点在し、先進国と呼ばれる場所にも起こっているのではないか。
この映画は、まだ浅い歴史を語ることによって(カストロは生きているし、彼らに関わった人たちも存命している)、生きている者の見方に寄った作品に仕上がっているし、なおかつ、死者が英雄であることから逃れられない作品になっている。
もう20年過ぎたときに、新しい「ゲバラ」が観れるのではないか、と私は思っている。
「ゲバラとは、なんだったのか」
それは永遠の命題なのかもしれない。
*どうも文字が大きくなりません。大きくして読んでみてね。
『チェ 39歳 別れの手紙』を観た。
まだ28歳の方を観ておらず、火曜日に観てから感想を書こうと思っていたが、別々に記載しようとも考えた。まず、簡単な感想としては、ストーリーが大変つまらない、退屈である、というものである。
多分、多くの方がそう思うのではないかと思う。それほどに静かに淡々と日常と、革命が過ぎていってしまう。
ゲバラは1967年に死亡し、その遺骨は10年前ぐらいに現場から見つかったと言われている。私が産まれた次の年には生きていた。私にとってゲバラは「経歴すら知らない、悪魔のように語られていた カストロ の友達」であった。
映像としての感想は、「カメラワークと色が異質」であったという印象で、私はそっちの興味でこの映画を愉しんでいた。
今まで観たことのない「色」と「カメラワーク」であり、特に照明の感じに大変違和感があり、私の中では「こ、これはなんだー!」という思いであった。映画では、照明の暗さ、変な明るさによって映像が「チェ」の生活、「チェ」から見える景色、「チェ」を見る周囲の人々の視線をうまく表現していた。日常の見慣れた素人が撮るような絵であるのだ。これがとても印象的であり、効果的であった。
その演出は、まるで映画を観ている側が「革命を担う一員」になってしまうかのような不思議な空間を生み出した。
帰ってきて、「何が良かったか」と問われ「面白くない。けれど、映像が凄いんだよ。あれ、なんだろ」と語っていたら、webでスティーブン・ソダーバーグ監督が、「レッドというカメラが映画の撮影が始まる二日前に出たんだよ」と語っているのを見つけた。
「そ、それはなんだ?」と探し当てたら、コレであった。
レッドワン カメラである。
これは、この監督が好む映像にぴったりのカメラで使い慣れている感じが映像にもにじみ出ていた。おもしろがって撮っている感じがある。
カメラの動きは、ヒトの目の動きであり、車に乗っている時も、革命をするゲリラたちがチェの話を聞くときの空の色も、まるで現場にいるような臨場感を作っていた。私たちが映画で知る「臨場感」とは美しく見やすいものであるけれども、そうではなくて安定しないヒトの目で観る世界を再現しているかのようだった。だから、淡々とストーリーは作られ、進み、静かに終わってしまっても、それはそれでいい。
映画が好きな人たちからすれば、題材と映像の印象がこれほどまでにぴたっと合うものを見せられると、『チェ・ゲバラ』と言葉と人々の思いがもたらす不思議な印象が感じられる。監督は、このカメラの登場を「(神から、またはゲバラからの?)ギフト」であると言っているけれども、本当にそう思えてくるから不思議だ。
映画を観て、考え込んで言葉にならなかった。
マルクス主義を土台にしたキューバという国の革命も何も、世界は変わってしまって今はもうクズ同然の思想である。しかし、それが「クズ」なのかどうかと本当に考えてしまう。私たちは、もしかしたら共産主義と資本主義をぶつけ合いながら考えてこなければならなかったのに、アメリカを始めとする「資本主義」の流れは、あまりに急速にそれを成そうとしたのではないか。そのひずみが今私たちが得ている問題の根本に潜んでいるのではないか、と。
『チェ』がアメリカでいつ作られ、いつ発表されたかは解らないけれども、選挙の時期に重なっているかもしれないと思った。
ならば、この映画は多少の影響があったのかも知れない。
以前も、アメリカで選挙のときにいろんな映画が公表されていたのだけれど、その時は「宗教チック」なものが多かったのも記憶に新しい。
帰り道「現代の革命は選挙か」と思って帰ってきたら、やはり監督もそう語っていた。資本主義で、「チェ」がやったことをやれないのか、と言えばどうなのか、などと考えながら、ぼーっとしてはまた考えて答えが出てこなかった。ゲバラは、日本にも来ていてトヨタの工場を視察し、広島にも出かけたと言われている。私たちはそれをあまり知らないが、彼の人間としての厚さはたくさんのエピソードがある。
この作品を観て席を立つとき「革命は日常にある」と思った。
多分、監督が狙っていた部分はそこであり、映像も言葉もそこに向かっていたのに違いない。
ゲバラは特異な人間であり、彼は放浪癖を持っていたためキューバのヒトでもないのに、キューバで革命を起こし、多くの南米で病や貧しさに苦しむ、子どもたちを見てきた。彼は比較的裕福な家庭に産まれ育ち、病の怖さを知っていたから、子どもたちが病に苦しめられることを、自分のこととして考えられたのだろう。
彼は医師として、現状というものが許せなかったのだと思う。
黙っていれば、医師としてのそこそこの生活と平和な日々があったはずだ。しかし、それを彼はヨシとしなかった。それだけで始まった「革命家の日々」である。モノにこだわらず、食べ物、寝る場所に関係なく彼は高い志だけを保ち続ける。
ゲバラのゲリラ戦は、現代で言うと「尊厳のための戦い」だと思う。革命家が必要なくなった現代だけれども、本当のことを言えば、みなが「静かなる革命家」として生きることを強いられているのかもしれない、とも思えた。
ゲバラが愛される理由は、彼は何にもこだわらなかったことだと思う。国境にも、人種にも拘っていない。人間として当たり前に食べ、当たり前に寝れて、当たり前に医療を得るという人間として最低限の部分を、多くのヒトに与えたい。教養すら与えられていない層の人間たちから搾取し富を得ている人間がたくさんいるのだから、それを還元してその層の人たちが苦しんでいたら渡せばいいのだよ、というごくごく普通のことを語っている。努力をしなくても生きていける世界を作りたいのではなく(彼は戦いの間もゲリラ戦に参加した農民に読み書きを教え、勉強しろと言っている)、人間として生まれ、人間として生きることを一人でも多くの人間に全うしてほしいと願っただけである。
ゲバラにとって、始めはネイティブ・アメリカンの人権を守る行動だったのかもしれないが、現代で考えれば、それはいろんな国にある問題でもある。ゲバラは、他国のことを他国のことで、俺のことじゃないや、と思えない人間であったので(笑)、彼はこの映画では他国に渡って革命を起こそうとしていた。
彼自身、今のメディアみたいな能力を持っていたヒトなので(広く人脈を得ていたヒト)、そのときはあまりに早すぎた有能な力だったのだろうと思うけれど、今となれば彼がやっていたことは、現代においては「問題」となっている部分に手を入れているのだ、ということが解る。アフリカは、自国では全くお腹いっぱいにならない「コーヒー豆」を作らされているとか、先進国に住む人たちの天然素材から抽出できる化粧品などの保湿剤を輸出して、自国の女性はそれを使えないぐらいになっているとか、そんな矛盾の上に成り立っている私たちの生活は、痛みすらないけれど、ゲバラはそれを具体的に、鮮明に想像できるヒトであったのだ。
ゲバラの生き方は、「男」の生き方だとも思う。
男っぽい、男らしい生き方である。彼の生き方に多くの世界中の男性が憧れ、今でも内戦を起こす若者の中には、ゲバラ崇拝者が存在するとも思えるほどである。しかし、ゲバラが「暴力」と「ライフル」を手にしていたのには理由があったはずだ。彼が現代に生きているならば、それをヨシとしたのかは解らない。
現代では、彼の思想を支えていたもの、を私たちは知る必要があるのではないかとも思える。
彼は、どんな「理想に燃えたのか」ということだ。それは、たいしたことのない「ごくごく普通にあってほしい世界」ではなかったのか。
簡単なことである。
貧しく病院から遠く離れた場所に住まされ、食べるものを作るけれども、自分がたべるのにも苦しみ、飢餓に悩まされ、病気になると病院で治療するにかかる費用すら払えず、その上その病院に出向く交通費も払えない。そういった暮らしを強いられているし、そこから逃げ出す教養を得る学校も近くにない。
そういうことを少しでも減らせたらいいんじゃないか、と僕は思う、ということだ。
ゲバラは、食べ物があれば子どもたちから渡す人間であった。
富に溺れ、食べるものも着るものも裕福で「貧乏人は彼ら自身に問題がある。子どもたちが学校に行かず働かされても、それは貧乏なあなたのお宅が悪いんでしょう」と語る人間との対比で、私たちはどちらが人間として尊敬できるだろう。
「ゲバラとはなんだろうか」と、私は今も考えている。
「現代において、ゲバラ的なものとはなんだろう」と。
彼には、地位も名誉もお金すらあまり重要なものではなかった。
国すら彼には必要なかった。家族を愛していたが、それ以上に愛するものがあった。
彼の中に確かに存在したのは、誰かの命が誰かの富のために搾取されていくことへの怒りだった。
私は、ゲバラというヒトは実はとても面白いヒトだったんじゃないか、と思っている。彼のギャグを聞いてみたいぐらいだ。彼の言葉から感じる発想の面白さに大変興味を持っている。
28歳の方の映画を観たら、次は日本でどのような行動を彼がしたのか、を知りたいと思っている。ゲバラ的なものと日本はあまり親和性がないけれど、大変興味深い。「ゲバラと正月(みかんとこたつ、餅とか)」の映像を想像しただけで面白い。彼は、日本で何に驚き、何に興味を持ったのだろうか。
彼は美人に弱かったらしい(というか、誰でもそうでしょう 笑)が、それは多分間違いで、彼はただの美人を好んだのではないはずだ。強い思想に支えられた強い意思を持つ美人に弱かったのである。
ゲバラが最強なのは、精神と思考もさることながら、医療に強かったということである。彼は怪我した仲間を助け、子どもの病に対し、真っ先に向かい助けた。
日本人の記録には、「ゲバラというヒトの目が澄んでいた」というものがあるらしい。
私はその文章に泣いた。
日本人なら、彼の思いを実はどの国のヒトよりも、解るかもしれないと思ったからだ。あまりに熱烈な行動力と思想に燃えた静かで強い男だった。
彼の行動記録(彼が書いた日記)が本になっているらしい。
ぜひ、読みたい。この本はまだ読んでいない。
ドキュメンタリーとは何か、と考えながら、そんなものは脇においてとりあえず見てみようかと思えるのがムーア監督の作品。
ドキュメンタリーと言われるが、記録映像の中に監督が入ってしまっている。その部分からすでにどうなのか?と思えるが、人生や事件というものはどこか滑稽なのだから、それでもいいんじゃないかなと思えてしまう魅力がある。
今回の保険の問題は、日本人こそ見なければならないのではないか、とも思えた。アメリカで起こっていることが、すでに日本でも起こり始めているのだ、とゾクッとする作品に仕上がっている。
アメリカ人の平均寿命が短くなっていることや、聴覚障害で手術をすれば聞こえるはずの少女が保険会社に許可を得れず、両耳に障害があるのだけれども、なんと片耳しか手術させてもらえなかったり。
この後に自分の保険の書き換えをしたのだが、自己申告性になっていた。思わず、この映画のワンシーンを想い出し冷や汗が出た。コントのようだが、日本の保険会社のやり方もこの映画の中にある保険会社と全く同じになっているのだな、と実感せずにいられない。まるで、映画の中に自分がいるようにも思えるほど、酷似している状況だ。
ムーア監督は、何をどう言われてもこの手法で映画を作り続けて欲しいと願う。なぜならば、彼は確実に映画によってどこかの誰かを引っ張りだしながら、現実を私たちに知らしめる。今回の作品でも少女の障害があり聞こえ辛いままの手術の許可が下りなかった片耳は、彼女の父親が「マイケル・ムーアが家に来ている」などと保険会社に通告したことによって、その後手術が認められたという経緯さえある。
監督の作品をどうのこうの、と評価するのは誰でもできるかも知れないが、その少女と家族にとって、彼は確実に恩人だ。そして、それでいいと監督も思っているのではないか。彼にとって映画を作るというのがそのような意味を持っているならば、ジャンルやドキュメンタリーなどいうカテゴリーや意味が、本当にどうでもいいような気がして来るから不思議である。
ちょっと冷や汗が出る作品。
ドキュメンタリーと言われるが、記録映像の中に監督が入ってしまっている。その部分からすでにどうなのか?と思えるが、人生や事件というものはどこか滑稽なのだから、それでもいいんじゃないかなと思えてしまう魅力がある。
今回の保険の問題は、日本人こそ見なければならないのではないか、とも思えた。アメリカで起こっていることが、すでに日本でも起こり始めているのだ、とゾクッとする作品に仕上がっている。
アメリカ人の平均寿命が短くなっていることや、聴覚障害で手術をすれば聞こえるはずの少女が保険会社に許可を得れず、両耳に障害があるのだけれども、なんと片耳しか手術させてもらえなかったり。
この後に自分の保険の書き換えをしたのだが、自己申告性になっていた。思わず、この映画のワンシーンを想い出し冷や汗が出た。コントのようだが、日本の保険会社のやり方もこの映画の中にある保険会社と全く同じになっているのだな、と実感せずにいられない。まるで、映画の中に自分がいるようにも思えるほど、酷似している状況だ。
ムーア監督は、何をどう言われてもこの手法で映画を作り続けて欲しいと願う。なぜならば、彼は確実に映画によってどこかの誰かを引っ張りだしながら、現実を私たちに知らしめる。今回の作品でも少女の障害があり聞こえ辛いままの手術の許可が下りなかった片耳は、彼女の父親が「マイケル・ムーアが家に来ている」などと保険会社に通告したことによって、その後手術が認められたという経緯さえある。
監督の作品をどうのこうの、と評価するのは誰でもできるかも知れないが、その少女と家族にとって、彼は確実に恩人だ。そして、それでいいと監督も思っているのではないか。彼にとって映画を作るというのがそのような意味を持っているならば、ジャンルやドキュメンタリーなどいうカテゴリーや意味が、本当にどうでもいいような気がして来るから不思議である。
ちょっと冷や汗が出る作品。
| 自分の子どもが知的障害だ。 そのため、この映画の中にあることは現実に起こっている ということも知っていた。現実にあること。 結果的には、こんなにうまく行かないけれども。 この映画は感動とか親子愛とか、仲間とか語られることが多いけれども、 私は知的障害者の「寂しさ」や「哀しさ」を訴える表現を見つめて欲しい とも思った。 健常と呼ばれるヒトたちとは、ちょっと違う表現を彼らは用いる。 でも、みんなと同じように彼らも哀しいし、 彼らも寂しいのだということを伝えるとき、 映画の中の表現の仕方がとてもうまいな、と思いながら観ていた。 Samにとって娘は、社会との繋がりをもたらすものでもあり、 そして、娘にとってSamは人間と人間の関係の中で、変わらない、変えられないものを教えてくれる存在だ。 その二人のちょっと変わった親子愛、人間愛を温かくビートルズの曲が包み込む。ちなみにこの映画でビートルズのカヴァー『Two of us』が流れるがショーン・ペンの兄、マイケルが奏でている。 サントラもいい。 | |
| アイルトン・セナは亡くなった。 私は彼を観に、スペインまで出かけたのだが。彼が亡くなる前不思議なことが起こった映像を皆さんみただろうか。 彼が勝つか負けるか、というようなシーズンの最後のレースで突然雨が降り出した。 ウェットに強いセナは、そのレースで勝つ。 彼は、そのレースの後に「ボクは神を見た」と語った。 ファンはみんな「神が味方するのはおかしい」とびびってた。「セナは天を動かす」とも言った。それほどに絶妙なタイミングで雨が振った。誰もその状態を信じられないほど、絶妙なタイミングだった。そして、みんながその状態を受け入れられなかった。凄いというより、怖い気持ちが先に立つような出来ごとだった。 そして、あの事故。 アイルトン・セナ展というのがその後全国を回ったけれども、そこで泣く男子は多かった。そのぐらい日本人にぐぐぐっと入り込んだレーサーはこの人以外にいないような気がする。 どのレーサーよりHondaを愛した。そして、どのレーサーよりも日本人みたいな人だった。日本人よりも、日本人みたいな人だった。彼はよく泣いた。泣き虫だった。 ちなみに、私の家ではこの人のポートレート(いろんな場所でプレゼントされていたのだけれど、申し込むたびに当たってた)で、玄関から家中いっぱい写真があったんだけど、ある日「止めなさい」って言われて全部外しました。死んだ人の写真で家中を埋めるのはよくないよ、って初めて知った。 |
北野武が刑事役。
外車に乗って、ウィンカーを点灯させようと思って、カチッ、カチッとワイパーを動かしてしまうシーンがある。
いつものコント。
外車などに無関係な貧乏人が外車に乗って必ずやってしまうこと、とあの頃のタケちゃんは言っていた。まじめなストーリーの中に、必ず笑いが折り込まれている。この映画のスポンサーはあまりに作品が暴力的なので、協賛のところに企業名を入れてくれるな、と言ったとか言わないとかの処女作。
北野武が、映画の世界にやってきたのはテレビがどんどん規制されて行ったため。やりたいことがやれなくなった。彼の中には、ヒトの中にある原始的な『暴力性』をかき消してはならないというような思いがあるのではないか、と思う。偶然に監督になったが、それは果たして偶然だったのかとも今は思う。
彼のテーマは今も昔もずっとヒトの中に生まれつき備わっている『暴力性』である。日本において表現で、タブーとされているものの一つだからこそ。
北野武は私のアイドル。
タケちゃんマンの時も、世界のキタノになっても、映画で客を呼べなくても、滑舌が完全にダメダメになった芸人でも、である。
北野武の映画に出て来る人々は、暴力的でありながら深く優しい。そして、深く寂しい。そして、ちょっとアホである。だらしなく、冷静に、あっさり、暴力的である作品。それと、人寄せパンダをずっと演じ続けている。
北野武、という人そのものが映画以上に作品であり、芸術であるようにも思う。
外車に乗って、ウィンカーを点灯させようと思って、カチッ、カチッとワイパーを動かしてしまうシーンがある。
いつものコント。
外車などに無関係な貧乏人が外車に乗って必ずやってしまうこと、とあの頃のタケちゃんは言っていた。まじめなストーリーの中に、必ず笑いが折り込まれている。この映画のスポンサーはあまりに作品が暴力的なので、協賛のところに企業名を入れてくれるな、と言ったとか言わないとかの処女作。
北野武が、映画の世界にやってきたのはテレビがどんどん規制されて行ったため。やりたいことがやれなくなった。彼の中には、ヒトの中にある原始的な『暴力性』をかき消してはならないというような思いがあるのではないか、と思う。偶然に監督になったが、それは果たして偶然だったのかとも今は思う。
彼のテーマは今も昔もずっとヒトの中に生まれつき備わっている『暴力性』である。日本において表現で、タブーとされているものの一つだからこそ。
北野武は私のアイドル。
タケちゃんマンの時も、世界のキタノになっても、映画で客を呼べなくても、滑舌が完全にダメダメになった芸人でも、である。
北野武の映画に出て来る人々は、暴力的でありながら深く優しい。そして、深く寂しい。そして、ちょっとアホである。だらしなく、冷静に、あっさり、暴力的である作品。それと、人寄せパンダをずっと演じ続けている。
北野武、という人そのものが映画以上に作品であり、芸術であるようにも思う。
on I am Sam : アイ・アム・サム